保坂和志『<私>という演算』レビュー
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レビュー
長めの感想
さて。「小説とは何か?」なんて問いを問うつもりはないんです。昔から作家や評論家たちがいろいろ言ってたし僕がそれに何かを加えられることなんてないからね。そういうのを読んでもそもそもよく分からない。
それでも一冊の本を読み終わった後でそれが「小説」なのか「エッセイor評論」なのかは自分では分かったつもりで棚にしまいます。今日アップする『〈私〉という演算』は、僕には「エッセイor評論」に見えました。
でも文藝春秋のオフィシャルな紹介文は「〈私〉についてこうして書いている〈私〉という存在とは…。〈私〉と世界との関係を見つめた表題作はじめ、思考のかたちとしての九つの短篇小説。」なんです。短篇小説だと言ってます。
一方、著者のあとがきでは「ここに集められた九つの文章が『小説』なのかそうでないのか、編集者は気にしているし、読んだ人の中にも気にしている人はいるだろう。(中略)今はそういうカテゴリーの問題はどうでもいいと思っている。」となってます。あとがき全体のトーンとしては「小説じゃないんだけど、小説と読みたいなら文句言わないよ」ぐらいのニュアンスに見えます。
これ、どういうことなんでしょうか。
浮かぶのは、編集者が「これ小説ですよね、先生、小説だって言ってくださいよ! 小説なんでしょ? 先生!」って一生懸命だったんだろうなという姿です。文庫解説も、小説だという方向で執筆が促された風です。
小説だと謳ったほうが売れる、ということでしょうか? そんなことないよね。
編集者は小説だと言う、作者はどっちでもいいと言う、読者は(おそらく)エッセイと読む人の方が多いんじゃないかな。さてこれが小説なのかどうかは誰が決めること?
さらに、図書館などで分類に使うNDCって規格があるわけですけど、この作品のNDCは913番台(日本文学 > 小説 物語)ではなく914(日本文学 > 評論 エッセイ 随筆)なんです。このNDCは誰が決めるのだ? 版元が小説だって言ってるのに914なんてNDCを与えたのは誰なんだ?
あとがきの「読んだ人の中にも気にしている人はいるだろう」ってとこですけど、僕は気にします。「小説なら新刊ハードカバーでも買う、エッセイなら文庫待ちもしくは古本待ち」という風に、買うかどうかの判断が、場合により発生するからです。読んだ後に気になるというより、読むかどうかという段階で気になる。
今回の保坂和志の例で言うと、僕のなかでは「文庫だったら全部買う」ランクの作家なので、どっちでもいいんですけどね。
例えば「作者が小説だと言ったらそれは小説なんだ」という言い方には一定の説得力があると思います。日本的ないわゆる私小説なんて、エッセイだと言っても間違いじゃない作品もありますし。ここで、作者がそういった物言いを放棄した場合は、誰が決めるのか。
第一義的には読者ですよね。読んだ人が小説だ、エッセイだ、どっちでもいい、と銘々に判断すればいいだけの話。版元が小説だといい、NDCはエッセイとなってても、判断は各自でご自由に、なんでしょうね。
それとも一般の読者ってそれほど気にしないものなの?