2003年10~12月

近況報告

2003年が終わります。

年の瀬です。

去年の年越しはFFXI、クロウラーの巣でトカゲ殴りながら0時を迎えたんですけど(分かる人だけ笑って)、今年はSealOnlineかもしれません(分かる人だけ泣いて)。

2002年から2003年前半にかけて、かなりサイト更新さぼってしまいましたが、最近はまた定期更新を心がけつつやってます。週刊と決めたメルマガの影響も自分で受けつつね。メルマガで「今週の更新」を情報として出しているのに、今週は更新なしです。って書くの恥ずかしいじゃないですか。

何気なく始めたメルマガも読者数100名を越えまして、まぁ予想通りのところで推移してます。これくらいの気安い感じで続けられたらと思ってます。

来年もまた、このくらいのペースで続きます。とりあえず来年の一発目のサイト更新では「2003年に読んだ本ベストテン」をやります。よろしく。

だろーがッ

久しぶりに五つ星付けたんじゃないかな、藤沢周『ダローガ』。新潟の地方紙「新潟日報」に連載されたやつで、そんなマイナーな出自ゆえか発売後に書店探してもなかなか置いてなくって、4軒目で見つけた曰く付きの書です。

最近やはり長編小説の『箱崎ジャンクション』が出たんですがそれはまだ読んでないものの(買ってあるけどね)、ほかの藤沢周の著書は全部読んだという立場から言わせてもらうと、『ダローガ』、彼の最高傑作じゃないですか?(言い切るなら言い切ればいいのにクエスチョン付き)

主人公は三味線の上手い不動産屋なんですが(というとアホっぽいのだが・・・)、文章から完璧に三味線の音が聞こえます。舞台装置も風景もみんな無くなって、音色だけになる瞬間があります。これなかなか素晴らしいですよ。

ロシア美女のピアノとジャムるシーンで、これはもう満点だと思いましたから。表現に飢えた作家という言い方もできるだろうし、奇抜な感覚器官と言ってもいいんでしょうけど、ここまで書ける人ってそういないと思います。どんな表現手法なのか説明すると「なんだ、ありがちじゃん」と言われそうなので説明しません。ストーリーとあわせ読まないとね。

また、いらついてざらついた心象風景は藤沢周の得意とするところですが、これもまた通低音として鳴ってます。下らない現実があって、下らない自分がいて、自分に苛立つから世界を毒づくしかなくなる、その狭間の文学表現はいつもながら。東京から上司が掛けてくる糞みたいな電話と、新潟の荒々しい海。

三味線と不動産屋と新潟とロシア美女ってぜんぜん線で結ばれなくって、どんな話なんだかぜんぜん想像できないでしょうが、三味線好きの人はぜひ。いやや、三味線好きじゃなくてもぜひ。

「ダローガ」ってロシア語で「道」という意味だ、として作品中で語られるんですが、これ「~だろうが」入ってますよね、絶対。だからどうしたということもないんだろうが。

男の恋愛小説

雑誌「ダ・ヴィンチ」だったかな、最近男性作家の恋愛小説が流行だ、という記事がありました。片山恭一『世界の中心で、愛を叫ぶ』を筆頭に、今回アップした辻仁成『いまこの瞬間愛しているということ』、あと大崎善生『アジアンタムブルー』、吉田修一『東京湾景』あたりが挙げられてて。

まったくひねらないストレート、正攻法な王道ストーリー。そういうのって昔から様々なシチュエーションで、様々な小道具でもって語られ尽くした恋愛小説の、手詰まり感から出てきたんだろうな、と思ってたんです。ひねくれ者なんで。

高橋源一郎言うところのじゃないですけれど、「これまで誰も発見しなかった新しい何かが付け加わっているもの」が小説として評価されるべき点だと思ってたりもするんで、シンプルな物語はそういうものとして楽しみはしますが、それ以上のものがあるはずだよなと。

ただ最近の状況と考え合わせると、これも社会的なものなのかなと思えたりもしてきました。つまり、現実逃避策として。

小説って多かれ少なかれ現実逃避を幇助するような部分があるじゃないですか。そのなかでも恋愛小説って最たるものでね。どっぷり浸かっている間はわずらわしいこと考えなくていいという。不況も、自衛隊イラク派遣も、どうでもいいようなことのように思えてくる恋愛小説空間。

そんなわけないじゃん。そうね。そんな強引な論調は、自衛隊のことここで言いたかっただけなんです。すいません。

経済と軍事を他国に委ねているという時点で日本は独立国ではないんだけれども、領主に逆らうべき事態ってのはあって、戦争したい!世界征服したい!という殿様にいつまでも無批判で付いていくことなんてない。殿様の武力統治という法とは正反対の法を、属国がもっているということでまず上手く立ち回れるはずがないんですけどね、そもそも。

アメリカにいい顔をする代償が、憲法無力化と東京でのテロ脅威と国際社会からの非難、なんて釣り合いが取れないじゃないですか。損な取引です。このイラク派兵、アメリカ以外のどこの国も(イラクも)歓迎していないしね。

復興支援というなら、そこが本当に「安全な地域」なのなら、完全に丸腰の文民を出すべきだし。アメリカ貢献じゃなく、国際貢献のために頭を使って欲しいものです。

ここで、日本はアメリカから独立します!というにあたっての懸念は、北朝鮮なんでしょうね。殿様の太刀に頼らざるを得ないという。そこをどのように捉えるか。

じゃどうすればいいんだよう。というときに人は恋愛小説を読むのである。

装丁画像

先日来、順番にレビューページの作り直しをしています。楽天と提携しているゆえの装丁画像を入れられるのがひとつのアドバンテージかなと思い、入れていってます。楽天サイトともつなげたので、レビュー読んで「買いたいな」と思った人はそのまま飛んでくれればいい、というふうにしました。さ~た~な行作家を残してほかは終了。

別に商売っ気だしてるわけじゃないですよ。こっそり広告も入れたりしてるんですけど。不況下で月給下がったりしちゃうので(泣)なんとかならんもんかと。・・・それって商売っ気?

ともかく装丁画像って結構クセモノで、著作権的にはグレーゾーンなんですけどね。「新刊書籍の販売のために使うのは業界慣習的にオーケー。でもグレーはグレー」というあたりの見解を、出版社の人に聞いたことがあります。このサイトは販売もしてるんだしオーケーだよな、と思いながら使います。

装丁デザインを知っているかどうかで、書店でその本を探すときの速さがぜんぜん違うでしょ。別にプリントアウトして持っていくってんじゃなくても「確か青っぽい色で・・・」という情報があるのとないのとでは本の見つけやすさで大違いじゃないですか。つまり装丁も情報なので。

そういうものとしてよろしく。「装丁でカラフルになってキレイでしょ」だとあからさまに著作権違反なので。

無限カノン

島田雅彦、『彗星の住人』に続く無限カノン三部作の二部三部がまとめて出版され、ようやく読めました。『彗星の住人』を絶賛した私としてはもちろん続編に焦がれてきたわけですが、ずいぶん待たされたことになります。

で、そこで語られる「不敬」について書いてみたんですが上手くまとまらないので消しましてですね、いや、やっぱ恋愛小説として美しいですよ。

変に出版社が恐れをなしたとか事前情報があるためにそういうものとして読むしかなくなってしまうのですが、普通の恋愛小説として逡巡なく出してしまったほうが各方面の読者にとっていいと思うのですけどね。

三部作全体としては彼の代表作となるはずの力作なのでまだの人は『彗星の住人』からどうぞ。

メルマガって。

引越しがありまして、まだダンボールも解いてない新居よりお送りしております。

なんでそんな忙しいときにタイミング合わせたみたいにはじめようとしてるのか自分でも分かりませんが、メルマガをやってみようかと思っています。すでに先週来トップページでも登録フォーム付けてるのでご存知かとは思いますが。

あまり気張らずに、あんまり大充実のメルマガにもせずに(という言い訳もしつつ)、のんびりやります。「週刊 旅と現代文学。」と銘打ちますが、このサイト自体がもっぱら週一の更新だったりもするので意味わかんなかったりもしますけれどね。

なぜメルマガなのか、なぜいまさらメルマガなのかって話はあるわけですが、僕の会社でやってるサイトでも最近メルマガはじめたんですよ。で、それを側で見てるうちに、ウチでもやろうかなぁと思ったわけです。

あくまでサイトがメインで、メルマガはサブという位置づけなんですけどね。サイトとはまた別の文章も書きますので旅と現代文学。ファンならぜひご登録を。

では部屋の片づけを続行します。ではでは。

古本屋に本を売りました。

今日、古本屋を呼びつけて、本を500冊ほど売りました。持っていたものの半分ほどを買い取ってもらいました。CD(100枚)・ゲームソフト(10本)と合わせて3万円ほど。はした金ですな。

なんでそんなことしてるかといえば引越しをすることになり、荷物量減らしたかったわけです。

ブックオフじゃなくって普通の古本屋でしたけども、「古本屋に売るな、買うな」という世間の言説によればこれは悪徳行為になるんでしょうね。では、じゃ、どうしたらよかったの? 全部燃えるゴミにしたらよかったんでしょうか。

処分本のなかには、村上龍と中上健次の対談集『中上健次vs村上龍』や全ポストカード未使用の『セビロとルージュと秘密の手紙』(この村上龍情報サイトを見ればどのくらいレアなのか分かりますが)、村上龍と村上春樹の対談集『ウォーク・ドント・ラン』とかですね、ファンなら鼻水出しそうなお宝本なども含まれてるのです。まぁ一律買い叩きのブックオフじゃなくってマトモな古本屋でも、一介の出張買取担当者にゃそこまで判断して高値で買うなんてことはできないわけですが、この機に売ってしまいました。後で読みたくなるかどうかだけを基準に、レアかどうかは考慮せず処分しました。

このサイトで「欲しい人にただで上げます、絶版本フェア。みんな集まれぇ!」なんて声を上げようかとも思ったのですがね。(←めんどくさくて売り終わってから言う人)

世に何千部残ってるのか知りませんが、燃えるゴミにしちゃったら一部消滅するわけです。先般絶滅した日本産トキのように、徐々に個体数を減らしてしまうわけです。それだったら読みたい人に回したほうがいい。新古書店の言う、まさにリサイクルの考え方ですね。それが「出版文化を守る」ということではないですか?

新古書店、いやブックオフが、出版文化を破壊してるわけではないでしょ? 21世紀のコミック作家の著作権を考える会は「漫画文化」って言ってるんですけど、もっと一般論で出版文化って言わせてもらいますね。いやすんません、人からこの会のサイト教えてもらって文章読んで、存在は知ってたけどまさか「文化」を主張してるとは知らんかったので。

文化を守るために、まずは絶版にするスピードを緩めるように出版社に要請ことが大事。最近びっくりするくらいどんどん絶版になるじゃないですか。邪推しますけど、紙はさっさと絶版にして、「絶版本が読めますよ」ってデジタルで売りたいんでしょ、彼らは。

(新潮社の絶版100冊編集長日記12月12日分、見沢知廉公式サイト左下に書いてある「初刷り契約期間中の10月23日までに残200~250冊を完売せぬと『絶版!』になってしまいます!」など参考。あれ、新潮社関係ばかりになっちゃった。)

上の見沢知廉のサイト、件の文章はもうすぐ消えちゃうでしょうから書いておきますと、結局『母と息子の囚人狂時代』は規定の冊数が売れなかったので絶版になっちゃったのです。3年を待たずに絶版ですよ。恐るべし新潮社。頼むから僕たちの文化を守ってください。

この絶版文化のなかにあっては、ブックオフはじめ古本屋を目の敵にすることは誰にもできない。そう思います。(本が売れないゆえの)絶版には古本屋が加担している、なんて言うなよ、そんなわけないだろ。

出版業界の問題を考えるというよりは、ブックオフを擁護したいだけみたいな文章になってきましたね。はは。

厚い文庫の行方

なんだか「新古書店」って名指し方への苛立ちに任せてだらだら話を続けてきたんですが、別にまとまった主張を激しく世に問うスタンスにもないので勝手に脱線しますけども。思いついたときに書いておかないと忘れっちゃうので。

一個褒めたい話。ある物事を批判して、その後それが良化したならちゃんと褒めるべきだろうなと思いますので褒め話。

花村萬月の『風転』が上・中・下の三冊に分割されて文庫になったんです。9月に上巻、10月に中巻と出て、11月下巻で完結する、という徹底したやり方で。素晴らしい。ハードカバーではクソ重い1冊モノだったんです。それが文庫で分冊されたということは手放しで褒めます。偉いです。

以前にこのコーナーで、やっぱり花村萬月の『二進法の犬』だったかな、ぶ厚い文庫で出たことに批判的な文章書いたんですよ(2002.2.18)。そういう意味での上記は褒め話ね。

そのときの論旨を復習しますと、文庫は廉価版という以上に携帯版という意味合いが大きくあるのだから、厚い文庫を出すのは読者に重い想いをさせるだけでどこにもプラスの要素のない、自己満足にすぎない。読者に迷惑をかけるのはやめてくれ、といった主張です。

もちろん別にこれを読んで改心して分冊したわけでもないと思いますけども。ぜひとも皆さんにも、厚い文庫にはノーと言ってもらいたくて改めて書きます。ホントはハードカバーにも言えることですけど、特に文庫には罪は重いでしょ。

上下巻に分かれてるより、くっつけて厚い1冊になってる方がいいという人、挙手。います? そんな読者はゼロだと思っているわけなんですけどね。それなのに、なんで厚い本なんて形で出るんでしょ?

この出版形態ってやはり出版社が決めるんでしょうかね? 作家は口を出す余地はあるんでしょうか? その辺も分からないので誰にモノを言っていいのか判然としないのですが。

出版社が「1冊として出したい」と言う時は、想像するに、上巻だけ買って下巻を買わない人が発生し、売り上げが落ちるのを懸念している。ね。そんな姑息な手法は蔑んでやってください、みなさん。

作家が「1冊として出したい」と言ってるとするなら、上巻しか買わない人がいるかもなんて自信のないことを作家が言うはずないですから、厚い本がカッコイイとかそんなことなの? そんなカッコ悪さは見下してやってください、みなさん。

もしかしてプラスの要素もあるんですか? 分冊するとコストがかかるから、1冊として出すことで定価を下げているんだ、とか。前回言ったように「本は高い」イメージですから、安くあがるなら悪いことじゃないです。でも携帯性の対価としては多少値にかかる部分があってもいいんじゃないでしょうか。

電車で片手で持って読みたい人もいっぱいいます。そんな人のために、上下巻に分けて出します、という考えになぜ至らないのか。「電車なんかで読んでほしくない。書斎でどっぷり浸かってほしいのだよ、君」なんて言ってもそれは作家のエゴです。読者がそれに付き合う必要はありません。否、否と言ってください、みなさん。

反感を買うためにあえて名指ししますけども、京極夏彦。名指しできるってことは作家サイドで上下巻に分けることを拒んでるんかな、それだったら迷わず自己満足の糞作家だと切り捨てられるのですが、出版社の意向かもしれないので言い切りません。しかし厚すぎでしょ。上下巻に分けたら誰か困るのかどうか、京極ファンはしっかり考えてみましょう。

これはハードカバーですけども、村上春樹の『海辺のカフカ』。あれは作家の意向で、薄く軽い紙を使ってます。それゆえに大長編が驚くほどコンパクトなサイズになってます。「変な紙」っつってあまり評価されてなかったりするんですが、軽くしたいという作家の想いはもっと評価されてしかるべきだなと思います。

褒め話のつもりが批判リローデッドになっちゃいそうだったので、最後また褒め話で締めてみました。

なぜ本は売れないのか?

最近では珍しい早めの更新間隔。なんのことはない、崩れそうになってる読了未レビュー本の山を早いとこ失くしてしまう必要に迫られてのことなのですね。はい。

前回、なんで本が売れなくなってきちゃったんだろうね、ってとこで終わったのでその続き。他にいろいろあるはずの原因をあえて見ない振りして「古本屋」のせいであると、あるいは具体的に悪玉作った方が共感を得やすいので「新古書店」のせいであると、ぶっちゃけ「ブックオフ」のせいであると(あ、ぶっちゃけちゃった)、言いたがる方も増えてますが、ちょっと原因まともに考えてみませんかという話です。

朝日新聞に9月ごろ、「本は(書店等で)買いますか? (図書館等で)借りますか?」というアンケート調査の結果が載ってたらしい。たまたま今日、会社で「新聞記事スクラップ」として回覧されてきたのを(こういうの著作権の観点からはダメなんでしたね)見て急いでメモっただけなので、正確なソースも集計母体も示せなくてなんなのですが。

それによると、買うが60%、借りるが35%、残りなんだっけ? ええと、買うという人の理由1位が「再読のため手元に置きたい」で、借りるのは「節約のため」。ね。

一緒に、なぜ本を買わないのですか?というアンケートグラフもあってですね、理由1位が「価格が高い」でした。当たり前ですか? 2位以下は「保管に場所をとる」「内容が貧弱」「情報はインターネットで十分」「映像や音楽のほうが面白い」「持ち運びが重い」と続いてました。

これは(図書館で)借りるのか、買うのかというきりわけで、買う人のなかで「新刊で買う人」「古本で買う人」という調査はしてないわけなんですが、本を買わない理由としてはだいたい外してないんじゃなかろうかと思います。

で、「価格が高い」と思われているからこそ、古本に流れるわけですよね。これが実際の順序でしょ。古本屋でみんな本を買うので新刊が売れない、というのは逆でしょ。

この不況下、ボーナスカットだ給料減額だってなかで、みんな苦労してます。ビール1本節約してうんぬんってやってます。相対的にも、本は高いという印象がより強くなってきてる。

いま、ハードカバーで1000~2000円ですか。僕なんかはそれでも安いと思える本は新刊書店で買いますし、内容に比して高いと思う本は古本屋で買います。要するに内容次第。でも、やっぱり全体的に高いと思う人が多いんでしょうね。

これに対応するには、まず作家は2000円でも安い!と思わせる素晴らしい本を書くこと、出版社はできるだけ価格を下げること。反論はあるでしょうが、「価格が高い」ので買わないと思っている人に買わせるにはこれ以外の方法はないでしょ?

本当は、価格に対して書店の努力要素があってもいいと思うんですが、「再販制度」なんていうものがあるせいで価格に関しては書店は打つ手なしです。もちろん何らかの「付加価値」を付けることはできますよ。でも本質的には再販制度がある以上打つ手なしです。

というわけで次回は再販制度の話。わお。

って高いのをなんとかしろってだけで終わるのもなんなので・・・。先ほどの買わない理由のなかの「情報はインターネットで十分」「映像や音楽のほうが面白い」、このあたりも近年だんだん売れなくなってきた、というところの原因の一部かと思います。これに対して明確に反論できる出版社はあるのでしょうか。なんて投げかけも置きつつおしまい。

古本と著作権

「物語の舞台検索エンジン」、インターフェイス少し変えました。収録冊数は増やしてないのですが、それもそろそろ再開して増強しようかと。ウチにしかねえだろ、って特異性もって言えるコンテンツのひとつなんでね。

さて。この近況報告で「次回○○の話します」って書いたならそれを守ることはほとんどないんですけども、今日は予定通り古本と著作権のお話。前回書いたとおり、「新古書店」が問題なのだとは思っていません。スケープゴートとして叩かれてるだけで、実際には「古本と著作権」の問題なのだろうと思います。財政苦しいので古本に対しても権利を主張したくなってきたと。

まず、古本として並んでる本も最初は誰かが新品で買った品なわけで、その段階で著作権料の支払いは終わっている、というのが僕の考え。それを複製して売りさばいたりしたら問題ですが、CDなんかと比べて幸い書籍は複製しにくいメディアです。著作権料を支払い終わったその本を古本屋に売って、それが古本屋で売られても、著作権の入るスペースはないと思っています。現行の法制度では。

だから中古販売に対しては先回挙げた「21世紀のコミック作家の著作権を考える会」も、声明文読んでもらえれば分かりますが、著作権料を求めるという方向にはなってなくって「(新古書店に)売るな、買うな」という営業妨害そのものな腹立ち紛れの言説になってるわけですな。

中古ゲームソフト販売をめぐる裁判を見るまでもなく、「中古販売」という形態自体は現在(法を変えれば変わるという意味で現在)まったく合法ですし、それに向かって「売るな、買うな」というのは誇張じゃなく営業妨害。逆に訴えられたら負けます。

やるなら著作権法(だか中古販売法だか、そのへんの制度)の再整備。中古販売からも著作権料を取れるような制度改定を求めていく。ね。この道が一番まっとうです。

結果それが認められてですよ、著作権料支払うことで古本屋の経営苦しくなるなら、古本の売値を上げることになってもかまわないと思うんです。今一般的な古本価格ってのは定価の半額ですが、そこまで安くならなくっても古本屋は利用します(古本屋憎しの人はそれじゃ意味がないって言うでしょうけれど)。

一方で「貸本」には著作権料の支払いを義務付けるって話はあってもいいかもしれません。一冊の本を複数の人に提供することが前提になってるのでね。中古販売とは物の流れが少し違うかも。実際、CDレンタル店は応分のお金を納めてますからね、中古CDはその支払いはなしで。「文化発展に寄与するから」貸本はそのなかの例外に指定されてるわけですが、その例外指定をはずすよう改定すればいいという。こちらのほうが、中古販売での著作権という形に新しく整備するよりは早いですし、実際そのような動きがあるようで。

「あの」JASRACを擁する音楽業界でさえ、まだ中古販売からは著作権料取れてない。そのこと自体が業界水準として、古本でも難しいんだろうな、とは思います。

「だーかーらーさ! 作家が儲からなくて仕事やめちゃったら古本屋も困るんだろうがッ! だろ! 新刊書店で本が売れなくなったら古本屋にも出回らなくて困るんだろうがぁ! だろう!」っていうならそれはまた別の話です。「本が売れない」原因を探して、それを解決するようにしないといけませんね。原因、なんなんでしょ?

では次回は本が売れない理由を考えてみましょう

今日の論旨ぜんぜんまとまってねぇや。

新古書店ってナニ?

前回書いたことに関して、少なからぬ人たちに「閉鎖するんでは」という匂いを嗅がせてしまったようなのですが、とりあえず閉鎖はないかなと。更新頻度がどうかは別にして。何か言いたくなったときに言える、自分のメディアがあるってのはいいことでしょうからね。

はい。それでは今日のお題はなぜか唐突に「新古書店」。

そもそも「新古書店」という呼び名が不詳なんですよね。まずこちら有名な「21世紀のコミック作家の著作権を考える会」を参照ください。従来の古書店はいいけど、新古書店はあかん!と言ってます。なぜ?

ところが、新古書店でコミックスが購入された場合、この読者←→作家という漫画作品を産み出す仕組みからは、まったくはずれてしまい、お客と新古書店の間でのみの閉じられた関係となってしまいます。私たち漫画家には一切印税は支払われていません。

21世紀のコミック作家の著作権を考える会

以上引用文。ちょっと「新」って言葉取らせてください。

ところが、古書店でコミックスが購入された場合、この読者←→作家という漫画作品を産み出す仕組みからは、まったくはずれてしまい、お客と古書店の間でのみの閉じられた関係となってしまいます。私たち漫画家には一切印税は支払われていません。

— 上記に私が手を入れたもの

新古書店ってわざわざ言わなくても古書店って言っても同じじゃん? 新古書店ってわざわざ区別して攻撃したいのはなぜ?

どうやら「発売後まもない本を、美しい状態で売っている」店が「新」と呼ばれるようなのですが、それは古本屋のまっとうな経営努力ちゃうの?

町のハズレの古ぼけた古本屋。ぜんぜん客がこねぇ。全集に積もった埃を吹き飛ばしながら悩める店主。一念発起して店の改装を決意。明るく綺麗な店内にして、本も磨いて美しく棚に並べることにした。徐々に増える客層。若さ溌剌なバイトを雇って、食いつきのいい新しい本を前面に押し出して、さらに売り上げ増大を目指す。

これ、どの段階で「新」と呼ばれますか? まだ、叩かれませんか。

本を買い取って売って、そこで利益を得る構造は「新」「旧」同じでしょ。それで「新」のほうだけ叩かれるんだとしたら、それは儲けてる奴に物言いたいだけ、Shit!Shit!嫉妬!ですよ。出る杭打ちたいだけですよ。浅ましき大和根性。

要するに出版不況のなかにあって、これまでみたいに古書販売を認めてたら苦しくなってきた。正当な権利として配分を受けたいということですよね。なら従来の古書店も同条件で攻めるべきではないんですか。

で、「貸本からも著作権料」というニュース

ここでも攻撃されるのは大型店のみなのです。なんでさ。儲けてる大型店に金をせびりに行く、零細貸本店は苦しいだろうから著作権違反も目をつぶる、そんなヤクザの任侠みたいな話なんですか? 仮にも「著作権」なんて大きな話をするなら全員同罪でしょ、それでお金儲けてるんだから。JASRACだったら非営利の個人サイトでも無関係にお金取立てにきますよ?

本日はここまで。次回は、「古本と著作権」のお話。

書評系サイトに何ができるのか。

ノートパソコンを買ったんですよ。お盆に帰省した折、やっぱりネットに接続できない環境は不便だなぁと身にしみたりしまして。旅に出るときに持って行けるような軽さを最優先で選んでB5ノート、PanasonicのLet's noteになりました。

日々同様のメールチェックやネットでのニュースチェックはもちろん、旅先でデジカメの写真整理したり、サイト更新できたりしたら楽しいじゃないですか。

で、用もないのに毎日会社にも持っていったりしてます。帰り道ラーメン屋で夕食啜りながらだとか、そういうどうしようもない状況で開いたりしてます。

無線LAN内臓してるんですが、そんなの使える環境まだまだなくって、PHS通信の@FreeD入れました。AirH"と迷って(おそらく選び間違って)@FreeD。携帯電話は持ってないけどモバイル通信。そんな環境です。

もはや何がサイト更新停滞の理由なのかも列記できなくなってきてるこの頃。ノートが可愛くてしようがなくて更新できない、なんて言えんよな。

なんというかね、サイトに不満があるんです。僕のやりたいことが実現できていないという。だったらグダグダ言う前に改築したらええやないか。って話なんですが・・・。

いきなりトーン変わってすんません。

僕のやりたいことというか、その方向に向けて加担したい状況ってのは「世の中に本の話題がもっと増える」ということなんです。もっと日常的に面白かった本について話したい。「お客さん、島田雅彦の新作読みました?」ってタクシーの運転手が話しかけてくるような世の中になってほしい(←ないよな)。

そのために、いろんな人に本を薦めたいわけです。この本手にとってみてよ、って言いたいわけです。本との幸せな出会いを仲人したいわけです。こんな場末のサイトでもそれくらいの純真さで運営されてます。

さっき例に出した島田雅彦で言うとね、「新作面白いよ! 買いだよ!」って書くとするでしょ。それを誰にどのように読んでもらうか。3段階ほどレベルがあると思うんです。

島田雅彦好きに読んでもらう。島田好きの耳元で「新作すごいでっせ」と囁けばきっと彼は買うだろうと思うんです。一番やさしいレベルとして、これくらいの役割は弊サイトでも果たせてるかなと。

島田雅彦に関心のない人に読んでもらう。これ、いわゆる書評サイトやってる人は当然可能なものとして書いてると思うんですけどね。意外と難しいことなんじゃないかと思うんです。まず「島田雅彦のコーナー」があってもそのリンクはクリックしないですよね? まずはここにきちんと届けたい。うまい誘導(なんて言葉で失礼)はできないものかと。

読書に関心のない人に読んでもらう。そもそも読書のサイト見に来ないだろ。ですよね。でもこのレベルに関してもなんとかならないかという想いがあります。そうじゃなきゃタクシー運転手が話題にしないでしょ。別にそこに力点があるわけじゃないですが。

運営者が、こんな場で書くべき文章じゃないのは知りつつも続けます(書くネタがないからだろとかは禁句)。

自戒を込めつつ言いますが。トップページのメニューに「Books」って文字があるのでクリックします。作家名がさらりとリストになっただけのシンプルなページが開きます。「島田雅彦」という文字を見つけたのでクリックします。書評がありました。ね。この書評、誰に届きますか? 誰に、何をさせたくて書いた文章ですか?

さらに。前に、このコーナーでこんなこと言った覚えがあります。自分でも過去分探すのだるいので記憶だけですが。「『これがお勧め!』と言うだけではもうダメなんじゃないか、『あなたにはこれがお勧め!』と言えなければ書評サイトとしてはダメなんじゃないか?」って。

そんなことを考えながら煮詰まったりしてるわけですね。ふむ。