2004年1~3月

近況報告

リスペクトせよ!

全国の尾崎ファンなお友達諸君! 元気だったかな? 春といえばオザキの季節! 今年もやってきましたよOZAKI祭り~~~~!!(喘息)

トリビュートアルバムが2枚同時発売となりました。宇多田ヒカルやミスチル、尾崎の息子なんかも参加するというので前評判も高かったかと思います。聴いた方いらっしゃるでしょうか。私、その内容に殺意を覚えまして怒りに任せてこの文章を書いております。

これは売れないアーティストに日の目を当てる場を作ってやるというレコード会社の親心ですか? それ以外の目的はありますか? 旧来のファンを怒らせ、新しいファンを増やすこともないヒドい出来です。須藤晃プロデュースというので期待もあったのですが。殺意覚えた人は私だけではないはずなので、参加アーティストは身辺注意したほうがいいです。特に175Rは。

トリビュートって、「その存在に影響を受けてきたアーティストが、リスペクトの心を込めて演奏するもの」だと思ってたんですが違うんですか。ねぇ。

特設サイトの須藤晃による解説を見ても、「尾崎のことはよく知らないと言いつつもこの作品の趣旨に理解を示してくれて」「『尾崎さんのことはあまり知りませんが・・・』と言ってたわりには」「尾崎豊から影響を受けたとか受けていないとか、尾崎の作品を知っているとか知らないとかは別として」とか言ってる。どうして尾崎を聴いたこともないような人にオファーしに行きますか? その時点でアレンジがトリッキーなだけの実のないものになるに決まってるじゃないですか。少なくとも曲の内容を理解する能力のある人を連れてきてください。

トリビュートといえば村上春樹のトリビュートという試みは思ったほど話題にならなかった(売れなかった?)かと思いますが、これはどうだったんでしょうか。若い作家で春樹の影響を受けてる人ってすごく多いわけで、この企画自体にはちゃんとリスペクトの意がある。

個々の作品がどうなのか、僕は読んでませんし分かりませんが、読んだ人いますでしょうか。村上春樹への想いが感じられるような作品なんでしょうか。音楽はともかく文学では珍しい試みのはずですが、どんな手法でカバーしてるのか全然分からない。パラパラと立ち読みだけはしたんですけど、単純な文体模倣でもないようですしね。「シリーズと銘打つからには、もちろん第2期刊行を来春に予定しております」だそうなんで、期待する方はどうぞ。

そうそう、赤坂真理『ヴァイブレータ』、5つ星付けました。リスペクト!でございます。

表現の自由だとか。

ひとことで言うと、「ゴシップ記事を書くことに表現の自由だとか国民の知る権利だとかいう言葉を持ち出すのは恥ずかしい」です。

それがどんな記事だったのかは知らずに書いてますけどね。買ってないので。

雑誌記事の内容を発行前に知ることができて、差し止め要求を裁判所に出せる人間が「私人」といえるのかという疑問は感じますけど、表現の自由が私人のプライバシーに優先するってことはありえない。

大衆の興味を煽って売り上げ増大を目指すのは出版社の方策としては正しい。企業としての利益確保という命題があるだけで、「公益」だとか本当に思って書いてたわけじゃないでしょ? 政治家の娘のプライベートな事柄について、僕に知る権利があるとも知っておくべきだとも思わないしね。

その「企業としての利益確保」もゴシップ記事ではもう厳しいということを、出版社もそろそろ知ったほうがいい。

雑誌『噂の眞相』が潰れたじゃないですか。慰謝料の高騰によって、つまり「ゴシップでは採算が取れなくなった」んですよね? 採算度外視してまでやるような社会的責任もないからさ。

もう、そういった「単なるゴシップ」って徐々に減っていくんだろうなと期待してるんです。「読者はこれを求めてるはず」っていう妄想もそろそろ捨てましょうよ。

地域密着小説

週刊と銘打ってるメルマガはともかく、サイトは別に毎週決まった曜日に更新しなくっていいんだ、ということを久しぶりに思い出したので更新します。

『東京湾景』、例によって浜松町駅ビルのブックストア談で買ったわけなんですけど、「東京モノレールが舞台になります!」ってポップが立ってたんですよね。

浜松町はモノレールの始発駅。だから一種のご当地物としてアピールしてるわけ。

こういうの好きなんです。なんか「おっ」と思って手に取るじゃないですか。特に僕は毎日モノレール通勤なわけでもあり。

でも、でもですよ、これは何もご当地である必要はないわけです。

姫路の書店でも礼文島の書店でも「東京モノレールが舞台になります!」ってポップを立ててもいいんです。今度の週末、飛行機に乗って初めて東京行くんです。って人は「おっ」って思うかもしれない。父の家業を継ぐために帰郷した人が、毎日東京モノレールに乗っていたサラリーマン時代を懐かしんで手に取るかもしれない。でしょ。

あらゆる土地に、あらゆる地名に「おっ」と思う人がいていいんだから。そういうアピールの仕方ってあってもいいと思うんです。

そういう想いで、旅コーナーに入れている「物語の舞台検索エンジン」は作られてます。

ね。上記に「なるほど。確かに。」と思う人、誰か「物語の舞台検索エンジン」やりませんか。誰もやってくれないのでしようがなく僕がやってますけど、誰かやってくれたら僕はやらずにすみますし、少なくとも僕はそのサイトに足繁く通うでしょう。

あのコーナーは更新したい気持ち満々なんですけど、サラリーマンの余芸でやれることじゃないって日毎に身にしみてきており・・・。

という『東京湾景』を枕にした愚痴です。

「これは小説だ」と決めるのは誰だ

トップページまた微妙にいじってます。

さて。「小説とは何か?」なんて問いを問うつもりはないんです。昔から作家や評論家たちがいろいろ言ってたし僕がそれに何かを加えられることなんてないからね。そういうのを読んでもそもそもよく分からない。

それでも一冊の本を読み終わった後でそれが「小説」なのか「エッセイor評論」なのかは自分では分かったつもりで棚にしまいます。今日アップする『〈私〉という演算』は、僕には「エッセイor評論」に見えました。

でも文藝春秋のオフィシャルな紹介文は「〈私〉についてこうして書いている〈私〉という存在とは…。〈私〉と世界との関係を見つめた表題作はじめ、思考のかたちとしての九つの短篇小説。」なんです。短篇小説だと言ってます。

一方、著者のあとがきでは「ここに集められた九つの文章が『小説』なのかそうでないのか、編集者は気にしているし、読んだ人の中にも気にしている人はいるだろう。(中略)今はそういうカテゴリーの問題はどうでもいいと思っている。」となってます。あとがき全体のトーンとしては「小説じゃないんだけど、小説と読みたいなら文句言わないよ」ぐらいのニュアンスに見えます。

これ、どういうことなんでしょうか。

浮かぶのは、編集者が「これ小説ですよね、先生、小説だって言ってくださいよ! 小説なんでしょ? 先生!」って一生懸命だったんだろうなという姿です。文庫解説も、小説だという方向で執筆が促された風です。

小説だと謳ったほうが売れる、ということでしょうか? そんなことないよね。

編集者は小説だと言う、作者はどっちでもいいと言う、読者は(おそらく)エッセイと読む人の方が多いんじゃないかな。さてこれが小説なのかどうかは誰が決めること?

さらに、図書館などで分類に使うNDCって規格があるわけですけど、この作品のNDCは913番台(日本文学 > 小説 物語)ではなく914(日本文学 > 評論 エッセイ 随筆)なんです。このNDCは誰が決めるのだ? 版元が小説だって言ってるのに914なんてNDCを与えたのは誰なんだ?

あとがきの「読んだ人の中にも気にしている人はいるだろう」ってとこですけど、僕は気にします。「小説なら新刊ハードカバーでも買う、エッセイなら文庫待ちもしくは古本待ち」という風に、買うかどうかの判断が、場合により発生するからです。読んだ後に気になるというより、読むかどうかという段階で気になる。

今回の保坂和志の例で言うと、僕のなかでは「文庫だったら全部買う」ランクの作家なので、どっちでもいいんですけどね。

例えば「作者が小説だと言ったらそれは小説なんだ」という言い方には一定の説得力があると思います。日本的ないわゆる私小説なんて、エッセイだと言っても間違いじゃない作品もありますし。ここで、作者がそういった物言いを放棄した場合は、誰が決めるのか。

第一義的には読者ですよね。読んだ人が小説だ、エッセイだ、どっちでもいい、と銘々に判断すればいいだけの話。版元が小説だといい、NDCはエッセイとなってても、判断は各自でご自由に、なんでしょうね。

それとも一般の読者ってそれほど気にしないものなの?

スキーに行ってきました。

スキーに行ってきました。雪山から更新ってのもおもろいかなと思ってノートパソコンもっていったんですが、そんなわけにもいかず、帰宅してから書いてます。

何年かぶりだったんですが、やはり気持ちよかったです。吹雪いてるなかで「顔痛い顔痛い」いいながら走る、バイクでコーナー攻めるのと同じような「死と隣合わせにあることの快感」なんでしょうかね? なんなんでしょうか。

年取って体力の衰えもにわかに感じましたね。テクニックうんぬんじゃなくて筋力が持たない。一つの斜面を滑り終えるまでも持たない。すぐ太ももが「先生、もう限界です、先生」って訴えるのでやむなく戦線離脱したり。

日ごろの不摂生を改めて、もっと運動しなけりゃなりませんね。

Accessでサイトを作りましょう。

ずっと前に「Accessで蔵書管理することにします」って言ってたんですけど、あ、あの、データベースソフトのね。で、うまく作れなくって、なんのことはない一度投げ捨ててたんです。内緒で。

ここしばらくまた触りだしてます。考え方を少し変えて。最初は、まったく独立した蔵書データベースとして構築してたんですけど、サイト作成のためのデータベースに切り替えようと。サイトに載せるための必要十分な情報だけが入ってて引き出せればいい、という風に。

サイト自体をデータベースで運用しようとは思ってないんです。そんな技術もないしサーバもないし。現在手書きで書いてるHTMLが少しでも楽に作れればなくらいの方向性で。

それで、Accessに読んだ本のレビューなり書籍情報なりを打ち込んで、そのままHTMLへにゅるって出せたら「蔵書を管理する」ことと「サイトを作る」ことがひと繋がりになるよなぁって。

とりあえずレビューページの作家別ページだけは出せるようになりました。フォーム開いて、プルダウンで切り出す作家を選んで、ぽちっとボタンを押したらHTMLとして出力できて、あとはFTPするだけ。

ぽちっとな。楽しいです。

若干不要な改行が入ったりするところもあるんですが、特に問題なさそう。あとはレビューページのトップと、作家一覧あたりもやっていく予定。

みなさんの目に見えないところで楽しんでてすいませんね。

レンタル著作権

著作権法改定に向けたこのニュース見ました? 音楽業界の既得権保護を一身に受けた音楽著作権部分に注目が集まってるみたいですけど、「書籍・雑誌の貸与権」なんてものも入ってます。つまり「貸本やるなら著作権料払え」で、昨年末からこの欄でちらりと触れてもいたことですね。

現行制度ではCDレンタルやビデオレンタルでは著作権は著作権料を請求できるんですが、書籍は例外としてあったんですな。でも現在の状況を考えると、例外にしておく理由はない、とか。

詳しく知りたい人は文化審議会著作権分科会報告書でも読んでみてください。

実際に改定が行われ、制度として入れば、町の零細貸本店は潰れ、大型レンタル本屋は値上げするんでしょうか。図書館は予算的に厳しくなって、需要の少ない本は仕入れにくくなるんでしょうか。漫画喫茶はどうなるんでしょうか。

もちろん著作権者が発動する権利なので、大型店には請求するけど零細店には請求しない、という判断は著作権者(この場合は著者じゃなくて出版社?)が自由にできます。それはそれでおかしいと僕は思ってますが。

CD輸入規制に関してもそうですが、基本的に消費者利益は考えられてないと思っていいです。レンタルをよく利用していた人にとっては本の手に取りやすさが後退し、レンタル店にとってはビジネスチャンスをあっというまに摘み取られる格好。著者や出版社の正当な権利が守られるという点にはもちろんNOはないのですが、本を借りるということの意味合いを、もっと考えてもよかったんじゃないでしょうかね。

上記文化審議会の報告の中に、コミックレンタル実験中にやったアンケートが載ってます。「レンタルを選ぶ理由はなんですか」という問いへの答えは・・・「買うより安いから」「よりたくさんの作品が読めるから」「家にコミックをあまり置けないから」「コミックを集める(蔵書する)気はないから」「ビデオやCDレンタルのついでに借りていけるから」「もともと買ってまでは読まなかった」。この答えを見て、レンタル規制によって新刊売り上げが確保できると本当に思ってるんでしょうか? レンタルででも本を読む人が増える、読者層の広がりによる効果と比較して、より利益を生むんでしょうか? 疑問です。

静かな大地

厚くっててこずってた『静かな大地』をようやく読み終わりました。北海道、和人とアイヌの関係を描いた歴史小説です。同時期に、先日アップした目取真俊『魂込め』を読んでいて、こちらは琉球の話。相乗効果を生みつつ、「民族」というものを考えさせられる時間でした。

単一民族国家という幻想を標榜しては異者をネグレクトしてきた日本。元士族というプライドの塊を配しては「アイヌを和人と同等に扱うなんて頭おかしいんじゃねぇか」なんて台詞を吐かせて、著者の怒りが染み出しそうになりながらも淡々と進む物語。

↑たったこれだけ書いて1週間放置してしまいました。民族問題について私に語れることなんてないんだから何か書こうなんて思わなきゃいいのに。

そんなわけでいまリネージュIIをやってます。いそがしいんです。

田舎。

土日に郷里に帰っており、ムシキングに夢中の甥っ子からの妨害を避けながら更新しております。

聞くと、つい最近わが田舎にも初の漫画喫茶ができたそうなんですよ。コンビニもお目見えして何年も経ってませんからね。ようやく発展の兆し、バブルはまだかという状況です。

漫画喫茶、前回話題にした図書館同様、本が売れなくなった原因のひとつと名指されている部分があります。漫画喫茶で漫画を読むので新刊が売れない、図書館で話題の書を借りるので新刊が売れない。漫画喫茶・図書館を利用することが悪人の所業のように言われる、笑えない状況もあるわけです。

高い新刊本を買って、気に入らなかったというリスクを避けるために

・・・という図書館擁護論、漫画喫茶擁護論をモノしようと思ったのですが甥のキックが痛いので切り上げます。めんどくさいだけだろって言わないで。

図書館とわたし。

今週は風邪で寝込んでたこともあり、読み終わった本もないのでブックストアだけの更新です。

はい。わたし、秋に引越しをして、新居のすぐ前に図書館があるという環境になったんです。今日はじめて入ってみました。

実のところ、図書館って中学校の頃学校の図書館に入ったことがある以降、一回も行ったことがなかったんですよ。で、今日ためしに1冊借りて帰ったわけなんですが、「この違和感はなんだろう?」と思いながらこの文章を書いています。

新刊本がすぐに入荷されるし、利用しないのはもったいない!って知人にも言われたりしてたんですけどね。

確かに新刊本はいっぱい並んでます。売れっ子作家の本いっぱい取り揃えてます。逆に、「この本探してたんだよ!」っていう絶版プレミア本ってあまり見かけませんでした。こういうのが現代の図書館なんですか?

なんなんでしょうかね、「本屋行ったら買えるのになんでわざわざ借りないといけないの?」なんです、思うところは。図書館をよく利用する人には意味不明の言い方だろうと思います。僕もうまく言えないでいます。

高校の頃、CDはレンタル屋で借りてばかりで買うことってなかったんですよね。「わざわざ高い金出して買う気がしれない」とか言ってたんです。でもいつのまにか「CDは買うもの。レンタルなんて考えられない」と逆の思い込みに切り替わってるんです、僕のなかで。何をきっかけに、どんな理由でそうなったのか知れないんですけど。

同じように、新刊本を借りることに違和感があります。絶版でどうしても手に入らない本は「借りるのもやむなし」というような心持ち。かといって蔵書は引越しのたびに処分しますし、全部手元においておきたいという気分ともちょっと違うようです。金が腐るほどあってさ、ってことでももちろんないです。

なんで図書館使わないの?って聞かれたら「返しに行くの面倒じゃん」って答えることにはしてるんですけど、それも正直なところじゃないような気がします。

いやすんません、未整理なまま話しはじめちゃったんでね、結論のない話なんですけどね。

まとまらないのは風邪のせいにしつつ、借りてきた『ブックオフと出版業界』を読むことにします。

予想通り芥川賞の話題?

リンク集改築したいと思ってます。まだビジョンはないのですが。それに先駆けて、作家別リンクは100字レビュー内に移しちゃいたいなぁと、あ~さ行まで作家ページに関連リンクとして入れました。いつもこんな風になんかやってる途中。「完成した!」という達成感ってほんと味わえませんね、サイト運営。

さて。芥川賞・直木賞が決まりましたね。綿矢のほうしか読んでないけど文句ないです。言われるほどヒドい出来じゃないです。でもこういうテイストのものが選ばれるってのはすごいことでしょうね。新しいものは認めないぜという宮本輝が選考委員にいるのに

僕は少なくとも『蹴りたい背中』は評価してるので、「話題性だけを求めた愚かな選考」だとは思ってません。でも、話題性で選ぶのも悪いことじゃないとも思います。なんだかんだ言って最も知名度のある賞ですから、文芸の活況を作り出したいなら利用すべきでしょ。ほかの三島賞だとか山本賞だとかでどんなに盛り上げようとしたって誰も注目してくれませんからね。普段本を読まない層にまでアピールできるのは芥川賞・直木賞だけです。

その、「普段本を読まない層にまでアピール」を僕はしたいと思ってますが、そう思わない人も多いんでしょうか? 読書がいつまでも高尚な嗜みであってほしいと思ってるんでしょうかね? それじゃジリ貧ですよ。

どのみち、作品本位にはなりえないですよね? だって一度受賞した作家はもう受けられないという仕組みなんだから、「この作品を受賞させるかどうか」ではなく「この作家を受賞させるかどうか」に必然的になるじゃないですか。だからこれからの期待度なりこれまでの安定性なりも考慮していいんです(近年の傾向では芥川賞が前者、直木賞が後者です)。

他方で、作品本位で受賞させる賞があってもいいかもなとは思います。「純粋に作品のよしあしで決まる」=「同じ作家が何度も取ってもいい」です。そこでは「三年連続の受賞です!」とか「七年ぶり悲願の返り咲き」とかがあり得まして、それはそれで楽しいかなと思うんですがどうでしょ。

今回なにげに重要だと思うのは、芥川賞・直木賞4作すべてですでに単行本が出ているということ。雑誌掲載のみで本になってない段階でも候補になるんで、受賞時点では本が出てないことが多いんですよ。

これで書店でも受賞作!って派手なポップつけて一番目立つところに並べられます。・・・しかし品切れだったりして。ちゃんと前もって増刷しておけよなー。

保坂和志的生活。

猫と暮らしてるんです。最近、つまり引越し後に暮らしはじめたんですけどね。雄雌ひと方ずつ居てですね、どちらもお年寄り。夫婦ではないんですけども。寝ても醒めても猫まみれな生活です。

そんで、雌のほうが春を迎えてしまってます。新春ですから(?)。こうやってパソコンに向かっていても膝に乗ってきて悩ましげな声で訴えかけてくるので仕事になりません。

若干時期ハズレなんでしょうけど、エアコンの効いた室内で飼ってるとどうしてもね。

保坂和志の描く猫、飼う身になるといかに適切な描写か分かりますね。猫文学と言うと保坂和志と「吾輩は猫である」しか思い浮かばないんですけど。保坂和志のいう、何かの象徴や比喩として猫を描くんではなくって猫を猫として書く、ってのは改めて難しいことなんだろうなと思うんです。勝手に余分な意味を呼んできちゃうような部分がありますから。

んにゃう。

あけましておめでとうございます。

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

予定通り、2003年で読んだ本のベストテン企画「2003年ザ・ベスト」設置しました。書店内のフェアを参照ください。誰にも文句は言わせねぇ、これが俺のベストテンだぜ、って偏りすぎな選出になっております。どぞよろしく。

こういう企画って普通年末にやるでしょ。でも今年一番の収穫本に、大晦日に出会うかもしれないじゃないですか。ゴールまで何が起こるかわからないじゃないですか。スタジアムに入ってから逆転劇が演じられるかも知れないじゃないですか。だから年明けなんですよ。当たり前じゃないですか。

・・・ところでマラソンだか駅伝だか、正月からご大層に走ってる大会ありますよね。うちの父親がテレビで中継見るの大好きで。朝からテレビに張り付いて。で漫才の見たい母親が「ずーっと走っとるだけやが。何がおもろいんか分からんわ」ってぶちぶち言うて、両親ともに不機嫌になってゆく、というのが正月恒例の風景でございました。

私は今年も実家に帰らずだらだらと東京の正月を過ごしてしまいましたが、きっと父は今年も見たと思うんです、ニューイヤー駅伝。遠くにあって想う故郷、そんないい正月です。